bluegrasswise ブログ

日本列島とほぼ同じ緯度にあるアパラチア山脈、どことなくその人情も日本人に通じる 南部アパラチアの田舎から生まれたオーガニックでエコなアコースティック音楽(共鳴 /共生)、そして1960年代以降のヒッピー文化を含むカウンターカルチャーとの出会い で自由な個々人の感性を尊重する非マウス音楽として人知れず世代を越えて広まりつつあるブルーグラス(bluegrass)にかかわる(wise)ブログです。

ジョン・グリック MOONSHINER/April 2018

ジョン・グリック インプロバイズするトラッドグラス フィドラー、 東京で一夜限り(5/9)のワークショップ

ジョン・グリック
〜インプロバイズするトラッドグラス フィドラー、
東京で一夜限り(5/9)のワークショップ〜

 

 

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フランク・ウェイクフィールド、デイブ・エバンズ、デル・マッカーリー、ダニー・ペイズリー、デビッド・グリスマン……、凄いでしょ!! この一連の濃い人たち……。そんな彼らから信頼されるフィドラー、ジョン・グリックがここのところ毎年5月に来日している。日本に住む息子さんを訪ねるのだそうだ。ようやく今年、時間を見つけて5月9日、東京で一夜だけ、フィドラーのためのワークショップを開く。

インプロバイズするロングボウのブルースからはじまったブルーグラスフィドルの歴史とともに、クラシックも能くするスーパーキッズ出身フィドラーが多い昨今、今では珍しくなった「叩き上げフィドラー」の魂が聴ける稀有なフィドラーを紹介したい。

(文責:井上“渡辺”三郎)

何年か前、息子のマンドリン奏者・井上太郎が、「ジョン・グリックって知っとう?」と言ってきた。「もちろん、ごっつぅええフィドラーやで!」と答えると、「そうナン...!?」。太郎は故・柳生真吾いとうせいこうによる企画として誕生した街の中にある植物を訪ねる『プランツウォーク』で当時、web TV 局「plants+ TV 」の即興音楽を担当していて、そのクリエイティブディレクターのルーカスB.B(=バテキ・バルコ)の父がブルーグラスをしているらしいと聞いてきた。ルーカスは「地上で読む機内誌」をコンセプトに雑誌『PAPERSKY 』やキッズ誌『mammoth』を発行、現在もジョンが毎年参加する子供キャンプ「マンモスハローキャンプ」などを主宰するニーハイメディア・ジャパンの代表取締役兼総合プロデューサーだ。2007年頃のことだったか……?

第一世代の偉大なブルーグラス創造者たちと、第三世代スーパーキッズたちに囲まれて、その存在感が希薄にならざるを得ない第二世代のフィドラー、しかもローカルミュージシャン。はっきり言って、日本でもジョンを知る人は少ないだろう。だがしかし、彼のような「叩き上げ」の「本物」のトラディショナル(伝統的)な流れを汲んだブルーグラスフィドラーは、本当に数少なくなっていて、とても失礼な言い方だが21世紀の現在、「天然記念物的な存在」であると思っている。

5月9日に計画されている「ジョン・グリックのインプロバイズフィドルワークショップ」は、アート・スタンパーやバディー・ペンドルトン、バディ・グリフィン、ソニー・ミラー……ほか、無名ながら1950〜60年代のブルーグラス発展の原動力となったフィドラー同様、飾られた商業録音ではなく、ブルーグラスが息づく現場叩き上げのフィドラーから「土の匂いがするアグレッシブな音」を身近に浴びることのできる極めて貴重な時間だと、わたしは考えている。来年は、できれば大阪でもやりたいと思っているが、どれだけの人が興味を持ってくれるのだろう?

セルフバイオ

文/ジョン・グリック

1951年5月28日、コロラド州ボールダーで生まれました。何度かの引っ越しののちメリーランド州ボルティモアに住むようになって60年ほどになります。家族は音楽好きで、ジャズやクラシック、フォークなど、いろんな音楽に触れるチャンスをもらいました。小学校のときには2年ほどバイオリンを習いましたが、11歳の頃に辞めてドラムスとサックスを弾き/吹きはじめました。

17歳のとき、1968年、ノースカロライナ州ユニオングローブのフィドルコンテストに行き、そこでさまざまに幅広いストリングバンド音楽を見聞きし、とても驚きました。100以上のバンドが参加しており、キャンプファイヤーの周りでフィドラーたちをはじめ、みんなが音楽への愛と喜びを爆発させているのを目の当たりにしました。

家に帰ってから、屋根裏に放り込んであった古いフィドルを取り出し、弾き方を思い出しながら学びはじめました。

当時のボルティモアには、とても多くのブルーグラスがありました。そのほとんどがバーでの演奏でしたが夏にはまた、地元のカーニバルやカウンティーフェアでオズボーンブラザーズやビル・モンロー、ルイスファミリーやドン・レノなどを観ることが出来ました。1970年代の後半の頃には、ウォルター・ヘンズリー&デュークスオブブルーグラスに参加、そのほかにもさまざまな地元のバンドで演奏をはじめました。

フランク・ウェイクフィールドのグッドオールボーイズへの誘いの電話があったのは1977年でした。それからしばらく、一緒に演奏をつづけました。ギター奏者はデビッド・ネルソンかピーター・ローワンでした。そしてニューライダーズオブザパープルセイジらのオープニングアクトを務めたり、ジェリー・ガルシアも何度かバンドに参加したりしていました。

1983年、デイブ・エバンズのリバーベンドに参加ののちデル・マッカーリーのデキシーパルズに参加、数年間、ツアーやレコーディングに参加しました。そののち、ボブや息子のダン・ペイズリーのサザングラスに参加してツアーをしていましたがその間も何度か、デルからレコーディングに誘われて参加しました。

そのように1970年代から90年代、フリーランスでさまざまなバンドに参加するとともに、自身の バンド、チェサピークレトリーバーズもやっていました。当時、ボルティモアには4軒か5軒のブルーグラスを演奏するバーやクラブがあり、フェスティバルやコンサートなど、いろいろな仕事のチャンスがありました。

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現在、フリーランスのほか、フットワークスダンスアンサンブル(マーク・シャッツ夫妻らのクロッグダンスチーム)、ブルーストーン、イーストマンストリングバンドなどのバンドに参加、またトレイシー・エルドリッジとふたりで子供向けのショウをやっています。

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……自分自身のことを書くのは、すこし気まずく、ぎこちない感じもしますが送ります。また、ボルティモアブルーグラスに関して、ティム・ニュービーが書いた『Bluegrass in Baltimore:The Hard Drivin' Sound and Its Legacy 』(McFarland, 2015)の中でも、わたしのことが少し紹介されています。

(了)

ジョン、注目のレコーディング

以下、ジョン・グリックが、これまでに残してきた録音から注目すべき作品を紹介しておこう。

なお、上記の『Bluegrass in Baltimore』には、ダン・ペイズリーの証言として、ジョンが「レスター・フラットやジミー・マーティンから誘われたけど、ここを離れなかった!」と語っている。1960年代はとくに、高度経済成長とともに労働者の羽振りが良く、昼間にちゃんとしたフルタイムの仕事を持ちながら夜には週に4日から7日間もクラブで演奏して小遣い稼ぎ……、ダンが言うように、「安定した収入と家庭を持ちながら、どーしてビル・モンローやジミー・マーティンのバンドに入ってピーナッツを買うくらいの稼ぎのために遠くまで出かけねばならないのか?」というのが当時、ボルティモアブルーグラスミュージシャンの選択だったという。確かにジョンは、そんな中で育ったものの、活躍が1970年代以降という、少し出遅れた感もあるが、日本で70年代以降、「DCグラス」という括りのバックボーンとなっていたDCの北、ボルティモアブルーグラス伝統/文化を見届けてきた証人でもある。

ボルティモアペンシルベニア南部地区同様、南部アパラチアからの移民が多かったオハイオ州シンシナティやデイトン、ミシガン州デトロイトなどに1960年代、独自のキョーレツなブルーグラス文化が花開いたことにお気付きの方も多いだろう。ナッシュビルで商業的に成功しかけたほんの数少ないミュージシャン以外、現在に至るブルーグラスを支えたのは、今はトランプ大統領の支持基盤といわれるラストベルト(錆びた地帯)のそんな労働者たちと、都会の医者や弁護士、そして、デビッド・グリスマンらに象徴される高学歴なミュージシャンたちだった……。J.D.ヴァンス著の話題『ヒルビリーエレジー』(2017年光文社刊、ロン・ハワード監督映画化)の紹介とともに近々、特集予定だ。(閑話休題

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●1976年、チャビー・ワイズやドン・レノ、ジェリー・ガルシアという巨匠らを迎えたグッドオールボーイズ名義のアルバム『Pistrol Packin' Mama』につづいて1978年に発表されたフランク・ウェイクフィールドの作品。フライングフィッシュから発表されたLP『Frank Wakefield & the Good Ol' Boys 』(FF-049、トリオから日本盤もリリース)がジョンのレコーディングデビューのようです。まだまだ未完ながら、ブルージーな“Blue And Lonesome ” などで、コードのマイナーペンタトニックのブルーノートや意図的なリズム処理など、のちの1980〜90年代に現われる自由奔放さを聴かせたり、“The Hobo Song ” における明らかなバッサー・クレメンツの影響などが楽しめる。
●1983年、ボルティモアペンシルベニア地域と同様、濃いブルーグラス伝統が残るオハイオ出身で、アール・テイラーやラリー・スパークスを経たソウルフルなトラッドグラスシンガー、デイブ・エバンズのリバーベンドに参加、『BluegrassMemories 』(Rebel 1630) と『Close To Home 』(Rebel 1693)に参加している。
●1985年、デル・マッカーリー名曲“Loneliness and Desperation ” を生んだ名アルバム『Sawmill』(Rebel-1636)。B 面4 曲目、名曲“Pick Me UpOn Your Way Down ” でのイントロの美しさ、この美しいメロディのアウトロをもジョンに任せようとしたデルの気持ちがよく分かる。

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つづくデルの名作、1990年の『Don't Stop the Music 』(Rounder 0245) や1992 年『Blue Side of Town 』(Rounder 0292)の録音にも呼ばれました。『Don't Stop the Music 』(1990, Rounder-0240)、デルが現在の巨匠と呼ばれる地位にステップアップするきっかけとなったラウンダー移籍第一弾作品と第二弾に参加、第三作でジェイサン・カーターが参加するまで、すばらしいフィドルを聴かせている。ちょうどデルの息子、ロニーやロブ・マッカーリーがデビューする頃、デキシーパルズの屋台骨を支えていたのがジョンだった。
●1994年のヨーロッパツアーでボブとダンのペイズリー親子のサザングラスに参加、2000年に入って発表された2枚のライブ盤、ダン・ペイズリー名義『Forty Years of Trouble 』(SCR-51、2001)とボブ・ペイズリー名義『Colors of the Blues』(SCR-55、2003)、とくにダンとの『40 years...』のジョンは本領発揮、ブルーグラスライブでのインプロバイズ魂に溢れた名演だ。

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日系フィドラー、アニー・カオル・スタニネッツ(本誌2016年3月号カバー特集)が発表したフィドル教本に収められた“Live and Let Live ” はこのときのダンのアルバム『Forty Years...』のキックオフ1曲目だ。ジョンのフィドルイントロで基本メロディーを取ったあと、計3回におよぶフィドルソロは圧巻だ。もちろん、ブルーグラスキーと呼ばれる「Bナチュラル」におけるバックアップも含め、楽譜だけではとても理解できないだろうが、その素晴らしい間奏を紹介しよう。

ジョン・グリックのフィドル

文、採譜/アニー・スタニネッツ

以下の文と採譜はアニーの素晴らしいブルーグラスフィドル教本、46曲のチョーシビアなフィドル間奏ソロを採譜した『Traditional Bluegrass Fiddle Solos』(=12頁写真参照)より許可を得て転載、またこの2曲の音源はB.O.M.サービスのサイトで聴くことができる。なおこの教本に、ジョンのソロはほかにも2曲、スタンレーブラザーズ名曲“Our Darling's Gone ” とスタンレーのカバーで知られるウィルソンブラザーズ作の“Lonesome Old Home ” の計4曲が収められている。

アニーは2008年以来、サンフランシスコベイエリアの名門キャシー・キャリック・バンドに在籍、2016年にはロッド・スチュワート・バンドでのツアーを体験するなど活躍をつづけている。

アニーのフィドル教本には、カーリー・レイ・クラインにはじまり、ラルフ・メイヨー、チャーリー・クライン、アート・ウートン、マック・メゲーヘほか、忘れてはいけないフィドラーの素晴らしい間奏がズラーっと46曲並ぶ。ブルーグラスフィドルの愉しみはフィドルチューンもさることながら、なんたって歌をなぞり、曲に思いを込めてのバックアップとインプロバイズする間奏ですネ、アニー!?

■“Wandering Boy”

ジェイムズ・キングとダニー・ペイズリーが、有名なDJ、レイ・デイビスの「ベースメントテープ」(スタンレーブラザーズのワンゴ盤などでも知られる)と呼ばれるシリーズに録音したA.P.カーター作“WanderingBoy ” のジョン・グリックの間奏です。

グリックはここで多くのブルーノート、例えば何ヶ所かで「F 」、また9小節目ではA線上の「C 」と「C#」の中間音などを使っています。2小節目、「B」と「F#」ではじまるダブルストップはA線とE線上の「Bb」と「F」をともに人差し指をスライドさせて弾きます。また彼は、そのドライブ感あふれるエネルギッシュなスタイルを、とくにこのブレーク後半で16分音符のパッセージを1音ずつのボウストロークを多用します。

ひとつ、気を付けることは、この曲の途中の? コード(キー「G」の場合の「D」コード)の長さが4拍ではなく2拍にする人がいることです。つねにその長さがどうなのかを尋ねておくのもいい考えですね。ここではレコーディングに応じた4拍で採譜しています。

■“Live and Let Live”

この曲はジョン・グリックがボブとダンのペイズリー親子と録音したライブ盤『Forty Years of Trouble』からのものです。ジーン・シェルドン作のこの曲は現在、ブルーグラスの人気あるスタンダードとして知られています。

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この録音でグリックは何度かソロを取りますが、そのすべてが素晴らしく、ブレークを重ねるごとにその素晴らしさが積み上げられているように感じられます。実際、このアルバム全体でのグリックのフィドルはまさに火を噴くようです!

16分音符のパッセージがつづくところで、彼は強いドライブ感を生むために弓に目一杯のプレッシャーとスピードをかけ、シングルノートのボウイングを多用しています。また5小節目で、第3ポジションにシフトし、「D」音まで(おそらく)小指でゆっくりとスライドさせます。そして6 小節目で、「A」音から薬指をスライドさせてダブルストップで「G#」を鳴らし、第1ポジションに戻ります。最後にはとても多くのビル・モンロー録音で聴かれる古典的なブルーグラス3連符で終えます。

最後に、ジョン・グリックのフィドルスタイルに至るブルーグラスフィドルの変遷を簡単におさらいしておこう。

ブルーグラス フィドルの歴史

■フィドラー受難の時代 50 〜60 年代を経て……

特異に多い1937〜38年生まれのバンジョー奏者と違い1950年代前半、すなわちフラット&スクラッグスがその絶頂期にベニー・マーティンやハウディ・フォレスターというかけがえのないフィドラーを擁してトラッドグラス最高のアンサンブルを成したときに15歳くらいだったという、ちょうど楽器モチベーションが最高潮に達した若者フィドラーの生き残りはそんなに多くない。……というより、著名ブルーグラス人のリストを検索してもその二年間に生まれたフィドラーは皆無だった。なぜなら、1954年にはエルビスがデビューして、フィドルという楽器の存在意義が、音楽業界から極端に貶められたからだと思われる。

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フィドル以上に田舎もんだったバンジョーは、まだ救われた。なぜなら当時、すでにバンジョーは死に体であり、スクラッグスのインパクトはそんなわずかなマーケットにとっての絶大であり、それがゆえに1960年代にはあたらしいモンとして受け入れられる余地があった。しかし、フィドルには19世紀以来、いやそれよりもっと昔、宮廷ではなく農家の納屋で弾きはじめられて以来、田舎もんの洗練されない雑音というイメージがついていったがため、その存在自体が忌避されたという一面があったと思われる。それゆえに1960年代のフォークブームで脚光を浴びはじめたバンジョーブルーグラスだが、そのフィドラーを志望する若者は極めて少なかったと想像する。

フィドリング・アーサー・スミスによって始まったロングボウと呼ばれるブルージーな奏法以来、ビル・モンローの好みによって形づくられていったブルーグラススタイルがはじけたベニー・マーティン登場ののちの1960年代、その流れをアグレッシブに継いだスコット・ストーンマン、そして親から受け継いだテキサススタイルをブルーグラスに昇華したバイロン・バーラインらがわずかな希望をつなぎ、さらにケニー・ベイカーがモンローミュージックのフィドルスタイルを完成しつつあったものの、1960年代にあたらしく台頭してきた若者バンド、カントリージェントルメンをはじめ、グリーンブライアーボーイズ、ザ・ディラーズなど、どこにもレギュラーフィドラーはいない。そんな中、スコット・ストーンマンを迎えたケンタッキーカーネルズは例外だろう。

兄ローランドのブルーグラス愛と弟クラレンスのアグレッシブなツービートというこの上ないホワイト兄弟に煽られたスコットのライブからインスピレーションを受けてとんでもないブルーグラスフィドルを、しかもビル・モンローのブルーグラスボーイズの録音に残したリチャード・グリーン。それは同時期にスタジオミュージシャンとしてメジャーカントリーで活躍しながらも、モンローミュージックに特化したベイカーとは違う、それまでのさまざまなフィドルスタイルを踏まえたツービートとスリーコードにおける高い音楽性を持つブルーグラスフィドルスタイルを残したバディー・スパイカー。そしてもうひとり、天才としか呼びようのない、モンローチルドレンながらビッグバンドジャズをひとりでこなすバッサー・クレメンツ。リチャード、バディ、そしてバッサー、この3人の第二世代フィドラーが70年代降に花開く新世代フィドラーの土台となったと思う。

そんな1960年代後半に、ジョンはブルーグラス虫にかまれたという。この3人からの直接的な影響は感じられないものの、ブルーノート(マウンテンマイナーも同じ)を主体にするアグレッシブなインプロバイズが身上のジョン、第一世代のフィドルを基盤として第二世代の精神性とテクニックを受け継ぐ生き残りフィドラーなのだ。

■新世代フィドラーの時代

1970年代、10代の前半ですでに名を成した天才、マーク・オコナーがナッシュビルフィドル伝統をすべて書き換えていく。テキサス(ないしコンテスト)フィドルと呼ばれるトラッドフィドルチューンにさまざまなバリエーションを加えて行くテクニカルな奏法を完成させ、さらにはブルーグラスで発達したコード上のアドリブ奏法もマスター、そしてジャズバイオリンの巨匠ステファン・グラッペリと並び称せられるまでにスウィングフィドルを極め、ついにはヨーヨー・マと組んでクラシック界で大ヒットとなる『Appalachian Waltz』を発表するに至る。

イツァーク・パールマンアイザック・スターン五嶋みどりなど、20世紀のクラシックバイオリンの巨匠らと肩を並べたメリル・ストリープ主演映画『ミュージック・オブ・ハート(Music of the Heart)』(1999)で披露した「オレンジブロッサムスペシャル」は、フィドルの地位が確実に別レベルに到達した証でもあった。

そんなマークが主宰したフィドルキャンプから、次々と生まれたのが第三世代のスーパーキッズたちだ。そしてマークがクラシック界に転じ、ナッシュビルでのセッションを止めたあとの仕事を一手に引き受けることになるのが、リチャード・グリーンと同じ、カリフォルニアからやって来たステュアート・ダンカンだ。ステュアートはマークと違い、そのテクニックとは裏腹に、つねにブルーグラスの初心に帰り、トラッドグラスに深く傾倒するフィドラーだ。

ステュアートの活躍でマークからちょうどいい揺り戻しを経験したそののち第三世代によるブルーグラスフィドルの発展は、わたしのような第一世代から抜け出せないおじさんフィドラーには目を覆うばかりのもの(!?)がある。2016年、東京で催したステュアート・ダンカンのフィドルワークショップでは第一世代の録音から学ぶことの重要性を繰り返し述べていた姿、その謙虚で真摯なブルーグラス愛には驚いたものだ。

口承伝承であるブルーグラスの本質、その魂、つまり目前の人物から受けるパルスは、よほどの想像力と感性の持ち主でない限り言葉や、ましては映像などから伝わるものではないことを胆に銘じることだ。いかなる音楽も「生」がサイコーだ。その場に赴くことができない場合は、ただ目を閉じて、真摯にその音に聴き入ることだろう。