bluegrasswise ブログ

日本列島とほぼ同じ緯度にあるアパラチア山脈、どことなくその人情も日本人に通じる 南部アパラチアの田舎から生まれたオーガニックでエコなアコースティック音楽(共鳴 /共生)、そして1960年代以降のヒッピー文化を含むカウンターカルチャーとの出会い で自由な個々人の感性を尊重する非マウス音楽として人知れず世代を越えて広まりつつあるブルーグラス(bluegrass)にかかわる(wise)ブログです。

ステュアート・ダンカン特集 MOONSHINER/April 2016

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ステュアート・ダンカン 「フィドルメニア」

 本誌2月号でお伝えすることができなかった、世界最高峰のブルーグラス フィドラー、ステュアート・ダンカンの来日、2月26日に急きょ開かれたワークショップなどからその音楽や素顔、そしてやはり、その尋常ではないバイオリンへの愛情などをお伝えしてしてみようと思う。

 

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■基本データ

 1964年4月14日、バージニア州クワンティコの海兵隊基地で生まれ、ロサンゼルスの西北約65マイル、1時間ほどのサンタポールで育っている。海兵隊勤務の父はピート・シーガーに影響されたバンジョーを弾き木工が趣味という堅実な家庭型らしく、ステュアートは父の趣味や、きっと性格までもをそのまま受け継いでいると見た……。

■タイムカプセル

 アリソン・ブラウンが高校卒業記念にと、二歳年下のステュアートとの連名で創った、ふたりともにデビュー作となる『Pre-Sequel』は1981年の発表だった。衝撃だった! 何よりも当時17歳か18歳、ハーバード大学進学が決まったという女子高生、アリソン・ブラウンのすごいバンジョーとドブロに、おそらく世界中のブルーグラッサーが驚いた! その上に15歳のステュアート・ダンカンがフィドルマンドリン、そして趣味のいいリードギター……、女性や子供が一級のトッププレイヤーとまったく遜色ない演奏を聴かせるという、それ以降現在もなおつづくトレンドの初めての作品として、明らかにブルーグラスの新しい時代を告げるアルバムだった。1981年のこのアルバム以降、21世紀の天才、クリス・シーリの出現まで、日本ではバブル景気による若者たちへの骨抜き文化によりブルーグラスのみならずあらゆるアコースティック音楽の冬の時代がつづく間、米国と欧州では怒涛のブルーグラスワールドが開けて行くのだが……。

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 そんな天才少女と少年だが……、やることは可愛い。「アリソンとタイムカプセルを埋めたんだ。べっ甲のピック、オーセンティックなドブロのサムピック、お互いへ宛てた2ページの手紙、フェスの主催者が踏み固めた土、そして何枚かの写真など。で、ミレニアム(2000年)に掘り起こそうって」、カリフォルニアブルーグラス協会のグラスバレイのフェス会場に埋めたという。「実際にはスケジュールが合わなくて、2002年になったんだけど、ふたりで大捜索、ちゃんと金属探知機も用意してね。楽しかったなぁ」。話している間中、子供みたい……。

■ラリー・スパークス

 そのデビュー作を聴いて以来、ずっと気になりながら1984年、ナッシュビルのステーションインでラリー・スパークスのロンサムランブラーズでとんでもなく爽やかな若者が、とんでもなくロンサムなフィドルを弾くのに感激、名前を聞くと「ステュアート・ダンカン」! あっ、あの……!?

 アリソンとのアルバムののち、高校卒業後に当時は唯一のブルーグラスを授業に持つテキサス州のサウスプレーンカレッジに一年のみ就学したのち、その年にラリーに加入したと思われる。

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 1970年代に西海岸を訪れていた日本の――とくに西海岸には関東系が多かったような印象があるが――若いブルーグラッサーたちは、まだ中高生だったステュアートやアリソンらとけっこう邂逅しているかもしれない。当時のジューンアップル誌などで報じられていたという記憶がかすかにある。カリフォルニアの名門トラッドグラス、ロスト・ハイウェイにも在籍、1982年にサウスプレーンカレッジで録音した『Lost Highway』にも参加していたというから、きっとディズニーランドでの演奏アルバイトにも通っていたに違いない。

 ラリー・スパークスという、現在はデル・マッカーリーと並ぶブルーグラス第一世代と第二世代を結ぶ至宝に若くして仕えた……そんな事実だけでも、今から考えるとすごいことだと思う。若くして、おそらく自ら望んで、ブルーグラスの核心に手を届かせたとは、……これはすごい奴だと思っていると、すぐその後、ピーター・ローワンとベラ・フレック(当時ステュアートと同様、ケンタッキー州レキシントン在住)の勧めでナッシュビル移住。それは1970年代の初期からのブルーグラスフェスやヒッピーたちのサポートで盛り上がりはじめた若者たちのブルーグラス(ニューグラスと括ってもいい)が、ようやく1980年代になって初めてナッシュビルでビジネスとして相手にされるようになり、サム・ブッシュやマーク・オコナーをはじめとするニューグラスの牽引者らがジョン・ハートフォードの引力でナッシュビル移住をはじめた時期とも重なる。

ナッシュビル

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 移住の1985年、当時のネオトラッドの風潮に乗って登場した中でもディープな南部の匂いを纏った話題のカルテット、ピーター・ローワンのバックバンドのように活動をはじめていたナッシュビルブルーグラスバンドに雇われて5人目のメンバーとして参加。以来30年間、NBBのバンドメンバーであり続けている。NBBはブルーグラスグラミーの常連としてラッキーなスタートを切ったが、看板ボーカリストのアラン・オブライアンが喉を痛めて活動のペースを急減速、最近では年に数回というライブスケジュールで、スタジオセッションの多いステュアートには居心地の良いバンドなのかもしれない。

 ナッシュビル移住とともにデモセッションのフィドラーとしてスタジオミュージシャンをスタート。当時、リッキー・スキャッグスの大ブレイクで始まったネオトラッドという70年代ポップカントリーに対する保守回帰のカントリーが見直され、急にフィドルの需要が増えたところに、おそらくステュアートの音の中にブルーグラス出身者共通の符号を読み取ったのか、「リッキーがセッションに声をかけてくれたんだ」という。そののち、「ちょうどマーク・オコナーの都合がつかないとき、ランディ・トラビスのセッションに呼ばれ、それ以降、次々とカントリー系の仕事も入ってくるようになった」のだという「ラッキー! 」。

 ランディをフロントランナーにした、いわゆるハットカントリー(カウボーイハットの復活)と呼ばれるホンキートンクをベースにしたカントリー、なかでも「カントリーの王様」と呼ばれるジョージ・ストレイトやアラン・ジャクソンのすべてのレコーディングにおける間奏を取ってきた実績は、ブルーグラスやアコースティック界でのアーティスティックな活躍以上に業界では評価されているという。

 しかし、我々にとって、ステュアートはブルーグラスフィドルの境界を限りなく拡げてくれた世界一のフィドラーだ。トラッドグラスのエッセンスを知り、それを的確なブルーグラス楽器の三大要素として知られる「3T」(トーン、タイミング、テイスト)で表現しながら、マーク・オコナーのクリエーター志向とは違う、ブルーグラスフィドルのイノベーターとして、おそらく本人も誇りを持って、ラリー・スパークスともヨーヨー・マとも同じ、ブルーグラスフィドラーとしてのスタンスで、我々に無限の可能性をもたらしてくれる。

■クラシックと楽譜について

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 「3T」のほかに、ワークショップで重要なポイントとして挙げたのは「P」(ピッチ)だ。その正確なピッチと多彩な自在ボウイング、左手指の圧力から生まれるすばらしいトーンから、わたしはてっきりクラシックの素養があるものだと思っていたのが大間違い! まったくクラシックは学んだことがないと言う……ただ一ヶ月間(4回ほど)、母の勧めでバイオリン教室に通っている。ひと月経ったのち、先生から母に電話があった、「残念ですが息子さん、わたしには教えかねます。だってどの曲も言った通り弾かず、すぐにハーモニーを付けてしまうんですもの……」と。そののち、あの正確なピッチと複雑なテクニックはすべて耳で覚えていったのだと言う。家にフィドルがあったのは、父が「家にない唯一の楽器だからって買ってきた」という。スコットランド系ということで、スコティッシュフィドルにも興味を持ったという。

 また、「楽譜はヨーヨー・マとの(グラミー受賞作品)『Goat Rodeo Session 』(2011)まで、読めなかったんだ」という言葉にも驚いた。つまり、彼の数々のスタジオセッションは100パーセント、譜面をなぞることではなく、そのセンスで買われているんだ!ということだ。誰も彼に、「こう弾け」とは指図しないのだ。

 「ゴートロディオのアルバム制作の準備期間が一年近くあって、その間のリハーサルで曲想を思いついて弾いていると、エドガー(マイヤー)がサッサとその場で楽譜にしてくれるんだ。自分はしばらく経つと忘れてしまうという、そんな繰り返しで、それでは困るんだとエドガーやヨーヨーに言われて、初めて真剣に楽譜を読み始めたんだ。今ではゆっくりだけど、なんとか読めるんだ。譜面は、読めないよりは読めた方が良いということに、やっと気付いよ」。

■無銘の愛器について

 1976年の夏休み、「12歳のとき、初めてのビーンブロッサムを体験したんだ。そこで母さんと歩いていると、ケニー・ベイカーが13本、フィドルを並べて売っていたんだ。その中から赤っぽいバイオリンが目に留まり、弾いてみたらすごく良くて。ケニーは、『そいつぁーいいフィドルだべ!(嬉しそうに強烈なアパラチア訛りの口癖を真似ながら)』。でもちょうどその頃、父さんが初めて作ったバイオリンをもらったばかりで、『でも父さんに悪いな』って、母さんと顔を見合わせていると5分ほどして父さんがやってきて、どれどれって弾いてみたんだ。すると、父さん『ぜんぜん違う!』って、買ってくれたんだ。それは少しだけ(約半インチほどブリッジとテイルピース側が)、普通より大きなフィドルで、それが今も一番メインで弾くフィドルなんだ」。

 そこで気になるお値段を聞いてみると、「260ドル。これまでにストラディバリウスやガルネリ……、本物だよ! いろんな名器というものを弾くチャンスがあったけれど、その260ドルのフィドルに勝るものは一本もなかったよ。今回のワールドツアーではそれじゃなくて、やはりボディーが半インチほど長い、別のフィドルを持ってきてるんだ」。それはマッジーニのコピーで、ナッシュビルの「バイオリンショップ」のフレッド・カーペンターから交換で手に入れたものという。

 「わたしは今、10本ほどのフィドルを持っていて、いろいろと試しているんだけれど、そのうち父が作ったのを含めて4本の気に入ったものがあるんです。また、これまでの経験から、ブルーグラスにはイタリア産のものはあまり向いてなくて、やはりドイツか東ヨーロッパ系のものが向いているように思います」

■日本とソロアルバム

 「そうそう、そのとき(1976年)のビーンブロッサムにはたくさんの日本人がいて、それがブルーグラス45だって思ってたんだけど(わたしのいたそのバンドは、かつてアメリブルーグラス界で伝説的に有名で、日本人とみると「45?」と言われることがあったという)違うんだね? でも、今でも45のLPを大事に持ってるんだ! 『Hello City Limits』だろ?」。ズコッ!……それは思い違いです、そのタイトルのLPアルバムはネッシーエキスペディションというバンドのんです! ちなみに1976年はわたしにとって、初めてのブルーグラスツアーを企画/引率した思いで深いツアーでもある。

 「今でも、ぼくがカバーのムーンシャイナーを持ってるよ」と言ってくれたステュアート、それは1990年1月号だった。あたらしい90年代の幕開けに、新シリーズ「90年代ブルーグラスの顔」の第一弾としてこのとき、ステュアートはずば抜けた輝きを持っていた。

 そう言えば、1986年にナッシュビルブルーグラスバンドが初来日したのも今回と同様、寝耳に水の来日だったようで、ムーンシャイナーでカバーになる暇もなかったと記憶している。確か、米政府の文化交流使節として米国のプロバンド初の中国公演だった。 二回目の来日は1993年、熊本の第5回カントリーゴールドだった。

 ソロアルバム『Stuart Duncan』が出たのは1992年、4半世紀もの間、世界一のフィドラーがアルバムを出さないとは、どういう訳なんだ!

 「みんな、二枚目を出したら、『一枚目が良かったのに!』って、きっと言うだろう。それが嫌なんだ」……なるほど、そういうもんか? 「って、いうのもあるにはあるけれど、忙し過ぎて、自分のオリジナルを書く暇がない!ということもある。やっぱり、カバーばかりじゃネ? 」

 ワークショップに向かう山手線の中で、「おうなぐうにって知ってるかい?」ときた。なんか「海の中の建物がどーの、こーの……」。ぐうにって、国のことかな? なんやろ……、とその場では降参、後日彼がメールで送ってきたのは「与那国(Yonaguni)」。あー知ってる! 海底遺跡かどーか、論争のあるとこだ。3日後、日本最終公演の大阪で、「大阪城ってここからどれくらいかかる?」、なぜかと思えば、巨石が見たいのだという。……どうやら、不可解な構造物に反応する巨石マニアの一面も持つようだ。

■家族について

 妻のディータは、サム・ブッシュの隣に住んでいて、当然ながら子供の頃からブッシュ家の知り合い、またコートニー・ジョンソンからバンジョーレッスンを受けていたような生粋のニューグラスっ子だったという。「14歳のとき、1985年のルイビルで開かれたケンタッキーフライドチキンのフェスで初めて会った。ファンの女の子のようにスクラップブックにいろいろとニューグラス系アイドル!?の写真を集めててみんなに見せてたんだ。偶然、その年の新聞に大きくわたしの写真が載っていてね。それで、名前を覚えたようだけど、そのときは彼女、ベラ・フレックと結婚するつもりだったんだ。

 それから5年ほどのちのある日、ツアーからの帰り道に、家に帰ってから飲むビールを買いに店に飛び込んで、支払いの年齢認証のIDを出したら、若い女店員が、『わたし、あなたを知ってる』って、よく見ると、『ぼくもあなた知ってる!』って、その頃は彼女もナッシュビルに移っていて偶然に再会。翌年に結婚したんだ。すぐに長男ジョッシュが生まれ、いま25歳ですでに結婚、ブルーグラスミュージシャンのわたしとは大違いの堅実人生。次男ジョナサンはシェフで、ステュアートは築地で「有次」の包丁をお土産に買っていた。高校を卒業した長女ダルシーは18歳。

■ステュアート・ダンカン・ワークショップ

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 しかし、かれのワークショップ本番でのあのオタクぶりには驚いた。最初っからビル・モンローの1947 年録音と1960年録音の“It's Might Dirk To Travel”を聴きながら、「key of G」のチャビー・ワイズと「key of B」のデイル・ポッターのフィドル間奏を聴きながら、そのエッセンスを実演……またオールドタイムフィドラーの音程に関するシビアな考察。ミュージシャンとして一番大切なのは、隣の人の音が聞こえること。

 自分では分からないが、妻ディータが言うサイコーの演奏はクリス・シーリ『Not All Who Wander Are Lost 』(2000)に収められている“Raining at Sunset ” の2回目のソロだという、のだそうだ。ワークショップでわずか数秒のソロに聴き入る姿は、あたかも演奏しているかのように体が反応していた。このアルバムに与えられた準備期間はたったの1週間だったという。

 そして運指練習法として、たとえばとても速いベラ・フレックのフレクトーンズのバンジョー曲“Magic Fingers ” を挙げ、キーを変えるなど、バイオリンではあまりないフレーズ固執バンジョーフリークの片鱗に驚きと、あーヤッパ?という感慨を持たせた。世界一のフィドラーも、やはり世界一のマンドリン奏者たち――サム・ブッシュやデビッド・グリスマン、クリス・シーリらと同様、スリーフィンガーをよくするバンジョーフリークなんだ......!? また、曲ではなくダブルストップを自在に組み合わせたり、バッサー・クレメンツもウォームアップにおススメ。

 使用弦は、トマスティック、スパーフレックス「ウィーンのト本社を訪れるチャンスがあったんだ。中にはどんな機械なのか秘密にしている部屋もあったけどいろんなところを見せてくれた。そこで知ったのがタングステン製のG線。とてもいいんだ」。ゲージはミディアムE、ライトA、ライトD、そしてミディアムのタングステンG。なお、E線にはデンマーク製のラーセンのツィガーヌ( Larsen Tzigane)がお勧めと言う。ブリッジはクラシックと比べると少しフラットだと言い、トリプルストップも披露してくれた。また、今日の参加者のほとんどは、わたしよりも弓を強く張っているという。

 仕事から疲れて帰ったりしたとき、どんな音楽を聴きたいですかという問いに、しばらく考えて、「初期の録音が好きだなぁ。1920〜30年代のギターのブルースや同時期のオールドタイムストリングバンド、フィドルなんかちょっとシャープしていて別のスケールに聴こえる山の音とか。考えさせられるものじゃなく、そこにあることがチョッと怖いような音楽かな……。そのあとはビールからな」。インプロバイズのアイデアはどこから生まれるという問いには、「例えば歩いてるとき大きなアナログ時計を思い浮かべ、それが自然に体の中で回り始めると、アルペジオやコードをセットして発展していく……」と「G-C-D」のコード展開で、次々と湧いて出るアドリブ。
 最後の2曲と言って、ベラ・フレック『Drive 』から“Down in the Swamp ” と最後、“Billy In the Lowground ” で締めた。

■楽器工作マニア……

 お父さんがクロウハンマーバンジョーを弾いていたって? 「うん、ピート・シーガーのようなね。父さんは海兵隊に務めてて、沖縄にもいたし、ベトナムにも行っていたんだ。基地育ちだったけれど、そのおかげでいろんな食べ物を楽しんだよ。お寿司にガリを乗せて食べるのも、醤油の代わりにポン酢をつけるのも、そんな中から自分で考えたんだ。料理も大好きだけど、ディータの方が上手だって知ってるんだ。もちろん、いろんな音楽もね」。ヨーヨー・マとのグラミー受賞作でも弾いていたクロウハンマー、お父さんの影響と思いきや、「いや、スリーフィンガーの方が得意なんだ!」って、うっソー!? それで、悪いクセとは知りつつ、ブルーグラス成立に関するアール・スクラッグス、すなわち三本指に込められたポリリズムとメロディーを装飾して行くアルペジオの不作為さとその重大さを語ってみたが、「アーハン」。ま、こんなマニアックな話は寿司を喰いながらするものではない、と反省。

 父親譲りの極めつけは木工。ステュアートが小さいとき、父はしょっちゅう楽器を解体しては組み立てていたという。高校の課題では古いベースをレストアーしたり、マンドリン型のエレキを作ったり。ついには今、最初のF5コピーが完成間近だという。ワークショップでは参加者のフィドルをつぎつぎとチェック、道具を持ち出して魂柱までセットしはじめたのには驚いた。ステュアートが弾くと、どのフィドルも素晴らしかった。

 最終日の大阪、日本で一番行きたかった場所は、「東急ハンズ」。友達がアメリカにない工具を見つけたって教えてくれたから。やっと時間が取れて、大阪の東急ハンズへ。彼はヒトコト、「ここなら、1日中いてもいい」。 (完)