ブルーグラスの誕生から70年、part two
”ブルーグラスの誕生から70年”のパート2です。
ブルーグラスはバンドサウンド(ムーンシャイナー2015年4月号より)
1946年9月と1947年10月の2度に渡って、現在「オリジナルブルーグラスバンド」と呼ばれる「ビル・モンロー&ヒズ・ブルー・グラス・ボーイズ」(ビル・モンローmd、アール・スクラッグスbj、レスター・フラットgt、チャビー・ワイズfd、ハワード・ワッツbs)によって録音された全28曲の特徴的なサウンドを、メディアが「ブルーグラス」と呼び始めたのは1950年代に入ってからだ。
本人たちも当時は気づかなかったかも知れないが、 現在の観点からそのジャンルで重要だったのは、「ブルーグラス音楽」の語源であるバンドが「ビル・モンローと彼のブルー・グラス・ボーイズ」と名付けられていたにもかかわらず、バンドにとってもっとも売り物のリードボーカル(スター歌手の位置)を、ビル・モンローが取らなかったことだ(のちには自身の立場とハイロンサムなボーカルの価値を認識し、多くの曲でメインボーカルを取ったが……)。モンローの人気が絶頂期だった1940年代、彼はクライド・ムーディ―やレスター・フラット、そしてマック・ワイズマンというスター歌手を擁し、育てるが、そのシャイな性格からMCさえもリードシンガーに任せ、自らはバンドリーダーに徹していたというビル・モンロー。さらにもうひとつ、自身のバンドのミュージシャン全員に、「バッターボックスに立ったとき」 のごとき集中力を求めたこと、すなはちバンド創設の最初からブルーグラスがバンドミュージックを目指したことあると言えよう。
それが1970年代以降の主なバンド、ニューグラスリバイバルやセルダムシーン、そして現在のアリソン・クラウス&ユニオンステーションやパンチブラザーズなど、彼らの時代に至っては、ギャラの配分さえもが全員イーブンであることにブルーグラスバンドの商業的姿勢が端的に表れていると言えよう。つまりブルーグラスは、スターシンガーで評価されるより、トータルなバンドサウンドで評価される、という姿勢だ。もちろん、数多の例外もあるし、バンドから一般の聴衆に最初に届くのは、すごいキックオフではなく、歌の内容とボーカリストの表現力であることは言うまでもないが。
I'm With her 関連URL一覧
今月24日から日本で公演の”I'm With Her” サラ・ワトキンス(Sara Watkins), サラ・ジャローズ(Sarah Jarosz),イーファ・オドノバン (Aoife O'Donovan)3人に関連するURLをまとめました。
まず、ニッケル・クリークで日本にもお馴染みのサラ・ワトキンス
ワトキンス・ファミリーでの活動の場合は、
ニッケル・クリークです。
サラ・ジャローズ
イーファ・オドノバン
ムーンシャイナー誌 10月号 掲載URL一覧
第26回IBMAアワードショウ ライブストリーミングがはじまる。
ブルーグラス界最大のお祭りイベント、「第26回IBMAアワードショウ」が10月1日午後7時半(日本時間10月2日午前8時半から)から開催され、同時刻からライブストリーミングがはじまる。IBMA(国際ブルーグラス音楽協会)のサイト(https://ibma.org/)のメインページから、今年のスポンサーである「Music City Roots」ロゴの下、「just click here」をクリックするだけ。ムーンシャイナー誌9月号の「2015 International Bluegrass Music Awards Naminations」リストを手に、sit back and relax...
さぁ、あなたもノースカロライナ州都ローリーのデュークエナジーセンターの特等席……!!
また今週末の10月3日、ピーター・バラカン氏がDJを務めるNHK-FM「ウィークエンドサンシャイン」(毎週土曜 午前7時20分~9時、全国放送)で、「アパラチアン ボイス」の特集があり昨日、おしゃべりが苦手な私、いつもながらにキンチョーしましたがなんとか収録してきました。エミルー・ハリスやアリソン・クラウスにつづく21世紀を代表するブルーグラス3人娘、ムーンシャイナー9月号でバイオ紹介、そして10月号でインタビュー特集した「サラサライーファ来日」(サラ・ワトキンズ、サラ・ジャローズ、イーファ・オドノバン)を意識して、アパラチアのボーカルに焦点を当て、その歴史をたどりました。よろしければ聴いてみてください。
ちなみに来日公演は東京・恵比寿(10月24~25日)、大阪クラブクアトロ(10月26日)、ブルーノート東京(10月28日)。
IBMAアワード 2015
あっという間に2週間、鎌倉・ナッシュビルのイベントも無事、好天に恵まれて済み、いよいよ今週はIBMA(国際ブルーグラス音楽協会)のお祭り、WOB(ワールドオブブルーグラス)週間が始まります。
最大のイベントは第26回IBMAアワードショウです。10月1日(日本時間10月2日午前8時半から)に催され、例年と同様なら、IBMA公式サイトから、2時間前のレッドカーペットインタビューを含め実況動画配信される予定です。詳細が発表されればお知らせします。
ムーンシャイナー誌9月号6頁から、今年のアワード最優秀候補、各部門の最終ノミニーズです。
p.s. 今週末の10月3日、ピーター・バラカン氏がDJを務めるNHK-FM「ウィークエンドサンシャイン」(毎週土曜 午前7時20分~9時)で、「アパラチアン ボイス」の特集があります。おしゃべりが苦手な私がゲストで、「サラサライーファ来日」を意識して、アパラチアのボーカルに焦点を当て、その歴史をたどる予定です。皆さんのリクエストもお願いッ!! ただし、収録は水曜日の午前中ですので。
ブルーグラスの誕生から70年、 part one: 1945年、ブルーグラス誕生
part one: 1945年、ブルーグラス誕生
モンロー・ブラザーズ(1929-1938)
28歳になったビル・モンローは1939年、兄チャーリー(8人兄弟の末っ子ビル、すぐ上の兄だが8歳違い。家庭での立場が想像できる)とのブラザーデュオ、モンローブラザーズを前年に解散、自身のバンドを作るときに、故郷であるケンタッキー州のニックネームからブルー・グラス・ボーイズと名付けた。バンドは1920年代から数多く出現したストリングバンド(米南部で発展した弦楽器、とくにフィドルとバンジョーを中心にしたバンド)の中でも、強烈なスピードのインストや強いビートのジャンプブルースなどで一線を画した。5弦バンジョーの革命的奏法でブルーグラススタイルの形成に最も大きく寄与したアール・スクラッグス加入以前の“Rocky Road Blues”はロカビリーの祖ビル・ヘイリーの“Rock Around the Clock”のグルーヴとよく似ており、ロカビリーの起源とも言われる。
オリジナルブルーグラスバンド(1945-1948)と呼ばれるビル・モンローのブルーグラスボーイズ(1939-1996)
1945年12月8日、そんなビル・モンローのブルーグラスボーイズ(レスター・フラットgt、チャビー・ワイズfd、ハワード・ワッツbs)にアール・スクラッグス(bj)が参加したことで、まったくあたらしいストリングバンド音楽、ブルーグラスが誕生した。それは、スクラッグスのスリーフィンガー奏法によってもたらされるドライブと、ポリリズム(アフリカからもたらされた複合リズム)に内包されるシンコペーションへの、バンド一丸となった対応によって誕生したものであると本誌は考えている。1946年と47年の秋に、コロンビアレコードに全28曲の録音(唯一のまぎれもない真正ブルーグラス)を残したこのバンドを、オリジナル・ブルーグラス・バンドと呼んでいる。
1948年春、レスター・フラット、アール・スクラッグス、ハワード・ワッツにフィドラーのジム・シューメイトを加えたフラット&スクラッグスのフォギーマウンテンボーイズ(1948-1969)
1948年にレスター・フラットとアール・スクラッグス、そしてハワード・ワッツ(のちにハンク・ウィリアムズなどで活躍)の3人は、ほぼ同時にビル・モンローのもとを離れ、フォギーマウンテンボーイズを結成、のちにフラット&スクラッグスとして親しまれるこのバンドが1969年の解散まで、全米および世界にブルーグラスを広める中心になっていく。
ブルーグラスは1940年代までは南部白人の田舎音楽として、音楽を売るための便宜的な色分け(ジャンル)として「ヒルビリー」という蔑称で一括りにされていた。しかし音楽がエンターテイメント産業として大きく発展しはじめた1950年代になって、ストリングバンドがジャズと出会って1930年前後に生まれたウエスタンスウィングから発展してスティールギターやエレキギターなどを使った、いわゆるホンキートンク音楽が主流となり、それらが「カントリー&ウエスタン」と呼ばれはじめたのと区別するためにラジオのDJたちが、マンドリンやバンジョーを使ったアコースティック音楽を「ブルーグラス」と呼び始めた。それが「ブルーグラス」という音楽スタイルを指す言葉のはじまりである。しかしなお現在まで、ヒルビリーを基にしたオールドタイム音楽やブルーグラス音楽は、そのはなはだしい音楽スタイルの違いがあっても、その歴史的経過から広義のカントリー音楽に分類されている。
『Sing Out』誌2014年春号。アール・スクラッグスとともに20世紀後半のバンジョーの復活に大きな貢献をし、同年に亡くなったピート・シーガー、そのバンジョーヘッドには、「This Machine Surrounds Hate(この楽器は憎しみを包囲する)」とある。
なお、ビル・モンローが「ブルーグラスの父」と呼ばれるのはフォークブームのただ中、1963年にラルフ・リンズラーがモンローのマネージャーとなり、フォーク雑誌『Sing Out』で初めて紹介してからだ。(つづく)
ムーンシャイナー2015年4月号より
今日、9月13日はビル・モンロー104歳の誕生日だ。
今日、9月13日はビル・モンロー104歳の誕生日だ。世界中に「ブルーグラス」という音楽コミュニティが生まれたのは、104年前の今日だった……と言えなくないか?
1996年、9月9日に亡くなって以来、生前のビル・モンローに関するいろいろなことがより詳しく明らかになっている。それでもまだまだ知らなかったこと、また気付くことが多々ある。最近知ったモンロー事跡のひとつに、学校は11歳、つまり小学5年製までしか行かなかった、というのがある。ことしも5月に訪れたケンタッキー州ロジーンのビル・モンロー生家、ペン叔父さんのキャビンやロジーン駅前の住宅に比べてもきちんとした造作から、それほど貧しくはなかったと思っていたのだが、どーだろう?
もちろん当時、それがフツーだったのかもしれない。伝説のオリジナル・ブルーグラスバンドでは高校を出たのはアール・スクラッグスだけ、そのためにブルーグラスボーイズの経理を任されたという逸話もあるほどだから……。それとも、極度の斜視でシャイだったというビル少年、兄からと同様、学校でもいじめが原因でドロップオフしたのかもしれない……。
そんな想像をめぐらせた今日、1日だった。……じつはムーンシャイナー10月号の締め切りで、そんなこと考えている余裕はないのだ、ぞ!!!
ということで、ビル・モンロー生誕14周年記念、ムーンシャイナーの4月号から8月号まで5回にわたり連載した「ブルーグラス誕生から70年」特集の一部分を何度かに分けて、加筆紹介しようと思う。もちろん、ムーンシャイナー年間契約を勧誘しつつ……!!?