bluegrasswise ブログ

日本列島とほぼ同じ緯度にあるアパラチア山脈、どことなくその人情も日本人に通じる 南部アパラチアの田舎から生まれたオーガニックでエコなアコースティック音楽(共鳴 /共生)、そして1960年代以降のヒッピー文化を含むカウンターカルチャーとの出会い で自由な個々人の感性を尊重する非マウス音楽として人知れず世代を越えて広まりつつあるブルーグラス(bluegrass)にかかわる(wise)ブログです。

ブルーグラスの誕生から70年、 part one: 1945年、ブルーグラス誕生

part one: 1945年、ブルーグラス誕生

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モンロー・ブラザーズ(1929-1938)

 28歳になったビル・モンローは1939年、兄チャーリー(8人兄弟の末っ子ビル、すぐ上の兄だが8歳違い。家庭での立場が想像できる)とのブラザーデュオ、モンローブラザーズを前年に解散、自身のバンドを作るときに、故郷であるケンタッキー州のニックネームからブルー・グラス・ボーイズと名付けた。バンドは1920年代から数多く出現したストリングバンド(米南部で発展した弦楽器、とくにフィドルバンジョーを中心にしたバンド)の中でも、強烈なスピードのインストや強いビートのジャンプブルースなどで一線を画した。5弦バンジョーの革命的奏法でブルーグラススタイルの形成に最も大きく寄与したアール・スクラッグス加入以前の“Rocky Road Blues”はロカビリーの祖ビル・ヘイリーの“Rock Around the Clock”のグルーヴとよく似ており、ロカビリーの起源とも言われる。

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オリジナルブルーグラスバンド(1945-1948)と呼ばれるビル・モンローのブルーグラスボーイズ(1939-1996)

  1945年12月8日、そんなビル・モンローのブルーグラスボーイズ(レスター・フラットgt、チャビー・ワイズfd、ハワード・ワッツbs)にアール・スクラッグス(bj)が参加したことで、まったくあたらしいストリングバンド音楽、ブルーグラスが誕生した。それは、スクラッグスのスリーフィンガー奏法によってもたらされるドライブと、ポリリズム(アフリカからもたらされた複合リズム)に内包されるシンコペーションへの、バンド一丸となった対応によって誕生したものであると本誌は考えている。1946年と47年の秋に、コロンビアレコードに全28曲の録音(唯一のまぎれもない真正ブルーグラス)を残したこのバンドを、オリジナル・ブルーグラス・バンドと呼んでいる。

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1948年春、レスター・フラット、アール・スクラッグス、ハワード・ワッツにフィドラーのジム・シューメイトを加えたフラット&スクラッグスのフォギーマウンテンボーイズ(1948-1969)

  1948年にレスター・フラットとアール・スクラッグス、そしてハワード・ワッツ(のちにハンク・ウィリアムズなどで活躍)の3人は、ほぼ同時にビル・モンローのもとを離れ、フォギーマウンテンボーイズを結成、のちにフラット&スクラッグスとして親しまれるこのバンドが1969年の解散まで、全米および世界にブルーグラスを広める中心になっていく。

 ブルーグラスは1940年代までは南部白人の田舎音楽として、音楽を売るための便宜的な色分け(ジャンル)として「ヒルビリー」という蔑称で一括りにされていた。しかし音楽がエンターテイメント産業として大きく発展しはじめた1950年代になって、ストリングバンドがジャズと出会って1930年前後に生まれたウエスタンスウィングから発展してスティールギターやエレキギターなどを使った、いわゆるホンキートンク音楽が主流となり、それらが「カントリー&ウエスタン」と呼ばれはじめたのと区別するためにラジオのDJたちが、マンドリンバンジョーを使ったアコースティック音楽を「ブルーグラス」と呼び始めた。それが「ブルーグラス」という音楽スタイルを指す言葉のはじまりである。しかしなお現在まで、ヒルビリーを基にしたオールドタイム音楽やブルーグラス音楽は、そのはなはだしい音楽スタイルの違いがあっても、その歴史的経過から広義のカントリー音楽に分類されている。

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『Sing Out』誌2014年春号。アール・スクラッグスとともに20世紀後半のバンジョーの復活に大きな貢献をし、同年に亡くなったピート・シーガー、そのバンジョーヘッドには、「This Machine Surrounds Hate(この楽器は憎しみを包囲する)」とある。

 なお、ビル・モンローが「ブルーグラスの父」と呼ばれるのはフォークブームのただ中、1963年にラルフ・リンズラーがモンローのマネージャーとなり、フォーク雑誌『Sing Out』で初めて紹介してからだ。(つづく)
ムーンシャイナー2015年4月号より